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メモの重大意義についての発見

メモの重大意義についての発見 新聞は地図だ。 新聞を朝読むと自分の今の状況認識ができる。これは地図を見て現在地を知るのと同じような感覚である。今日は何が起こって昨日と違うところが何かある。これが地図的感覚である。これから登る山は頂上までどのくらいある。今まで何時間かけて登ってきた。それから逆算するとこれから何時間だ、というような。だから新聞を読むということは毎日地図を見ているのと同じである。 メモと地図の関係 この地図的意識がメモを取らせるのである。自分の今を確認している作業である。 電話番号、住所、名前を書いたり、本の名前を記入、暗証番号を書いたり、新聞の表題を書き留めたり、写真を撮ったり、たぶんブログもその延長線上にあるものだろう。フェースブックもそうかもしれない。SNSもある意味そうかもしれない。メールを書いたり。しかし基本的にはわずかな記録を書いておくということがメモの実際であるとすれば、これは羅針盤や地図を前にして自分の位置を確認し、かつどの方向へ進めばいいかを検討している状況の中にいるのである。忘れたくない。明日の行動予定、場所、時間、何時ころ帰る。あの人に電話する。誰かと打ち合わせする。いつ、どこで。メモは予備の記憶装置である。データである。忘れてはいけないデータである。しかしこのメモというのは多くの人が書いているが人生の上では非常に重要なものである、と誰も思っていない。何故か、無意識のうちに重要なことをしているのでわからないのである。メモを取るという行為が、自分の位置確認とこれから未来に向かって何をしどっちの方向に向かうべきかを暗黙のうちに模索している行為でもある。そんなことは関係ないと思っていても心の奥深くで関係しているのである。そのメモをなぜメモするのか。自分の今の必要性からきているが、それは未来に顔を向けている行為でもある。未来に関係する。今も重要だが自分の未来に関係する。指向する方向に向いている。その確認をしたり。つまりその人に必要なことをやっている。何もかも忘れていけないことを書いているわけではない。選択している。自分にとって重要なことを選択している。それをメモとして持っている。それで書いているのである。だから書くという行為そのものが未来を志向している。自分の未来を決める行為である。我々に本能的に備わった生きるという未来へ向けての思考が支配...
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 メモ帳カバーを販売して「感想1」  最近の状況 メルカリやヤッフーで販売を初めてもう三年になる。この間約200冊の皮のカバーを販売できた。これでいいのかどうかわからないがメモ帳はそのまま持ってかばんに入れたり胸のポケットに入れたりすると、傷んできて、人前に出すのもちょっとまずいと感じることもあるので現役の時代から皮のカバーを作って使っていた。そのときにも周囲の人達にも差し上げていたが 定年になってから本格的にやりだして、3年となる。その間もポツポツ売れてなんと200冊までになった。これでうまく行ったなどと思っていないが、今でももっと売れないものかと思っている。  メモの効用 書くことの効果などについてもその後調べて、買ってもらった人たちには多少の知識を書いたメモ帳の使い方という冊子を作った。色んな人がメモ帳については書いている。もうたくさんありすぎて全部を見渡すことすらできない。しかし出来る限りそういう本には目を通して大体何が書いてあるのかを理解するようにしている。またその種の本の紹介も何十冊もあげてある。自分で読んで確かめるためにも必要と思い、古いものも含めて。   しかし一番大事なことは自分の必要としていることを書いたメモ帳というものであるから、今の自分にとって大切なことを書いてある、ということは、メモを書くということが自分の積極的な生き方と連動しているようにも思える。そういう意味ではメモを取るというのは非常に重要だということに今更ながら思い至る。何かを覚えるため、忘れないため、必要なことを書き留めておく、スーパーに買い物行くときのメモも同様でそういうことはある意味で人生を積極的なものにしている。新聞を読んでメモを取る、本を読んでメモを取るなどメモの効果は大きので積極的にこのメモ帳が使ってもらえるように努力している。  ミニルーズリーフ また一方ではメモ帳というのはデータベースのもとになるものなので、最近は3穴のミニルーズリーフも作っている。これも非常にメモ帳サイズで扱いやすく、メモがシステム化できるという効果もあり需要が高まっている。この三穴のミニルーズリーフはB7のサイズのメモ帳が使えるのでこれにパンチで穴を開けると高いミニルーズリーフは買う必要がない。ダイソーなどでは160枚のメモ帳2冊で100円というもの...
オタクの世界から素人の世界へ、古いパソコンが復活して楽しむ、240409記  古いパソコンを捨てようか 15年前ほどのパソコンである。ウインドウズ7,corei7と書いてある。富士通のパソコン。もう捨てようと思ったところいろんな動画で古いパソコンがサクサクうごくという。その動画につられて、実際最初はubuntuを導入、2日かかってなんとか使えるようにはなった。しかしそんなにサクサク動いているわけではなく非常にゆったりでイライラさせられる。だめだなと思っていると今度はハードディスクをSSDに切り替えればいいというので、これも2千円くらいのを買って換装してみた。なんともなくかんたんにできるものだ。  ubuntuを入れてみる それでもubuntuは遅いので仕方なくもっと軽いOSという動画をさらに見てXUBUNTUを導入、これも一発ではうまく行かなかった。最後は日本語で苦しめられたが、3回目でなんとかなった。このブログもそれで書いている。非常にこのOSはサクサク感が強い。グーグルくらいで使いこなす人にはなんら問題ない。たしかにウインドウズにつきもののなかなか立ち上がらないとか、時間がかかるといったことはあまりないのであるが、このxubuntuを使ってわかることはいかにウインドウズが多様に使えるかということだ。これは実感として、古いパソコンを活かすのはこれでいいのだが、更にいろいろなことをやるには、素人の僕には難しい。テキストを書くのに特化しているなら全く問題はない。NOTIONも使えるし、他のソフトも色々使えるが 本当に使い勝手はどうかと言われればウインドウズになる。  お金がかかる しかし年々バージョンアップしていくという資本主義世界の論理によってある程度の利益を稼がなければならないという企業の使命からすれば、どんどん新しいものを開発していく必要がある。そして買い替えてもらう。しかしこれに抵抗して、買い替える費用ももったいない、という人は多少の成約があってもこのxubuntuでいいのではないか。使う範囲にもよるが軽い仕事向きならこれで十分だろう。クロームブックなど使っていた人にはこのXUBUNTUで十分という感じもする。中古でウインドウズ11が使えるパソコンはだいたい2万円位で買える。  オタクから開放しよう しかしこれもスピードや...

メルカリでの手帳の販売数

メルカリを始めて3年 手帳を販売しようと考えて2年。 最初の年こそ10冊程度でした。 2年間で累計販売冊数は100冊を超えました。 革の手帳カバー。正確にはメモ帳カバーです。A 7サイズの皮のカバー付きのメモ帳。 販売させていただいた方からの返事は超使いやすいとのことです。 David一郎の名前で販売しております。 また最近B 6横のルーズリーフが文具店から消えています。要注意です。これだと今まで知的生産の技術で言われていたB 6ノートは使えなくなりバインダーも無意味化していきます。これは極めて残念なことです。コレクト社は2年ほど前に一種類は絶版としています。選択肢が減ってきて使っていたものにとっては本当に困ることになりそうです。少しお金を払って作ってもらうなどのことも考えなければなりません。少し勉強してるものにとっては残念な状態となりつつあります。

老化問題

ある脳科学者が老化対策を書いてるのを解説したYouTubeを見る。というか聞いた。 まず自分は若いと思うことが必要であるということが非常に重要だ、とのこと。 老人脳かどうか判別するのは目をつぶって片足で30秒立てるのか?これも判断材料らしい。

この手帳の使い方

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ビジネスマン歴40年の経験からこの手帳の良さと使い方をお伝えいたします。この中の本体の各部分はkyokutoのb7サイズの縦型の白紙のメモノートです。今回メルカリに出品しましたので使い方も伝えておく必要があると思いましたのでここで公開いたします。 手のひらサイズ、白紙で何でも書ける、ズボンや胸のポケットには完全に入る。しかも取り出した時にはワイルドな感じもしてできるビジネスマンやウーマンの印象が強く出る。また手になじむので使ううちに愛着感が一層出てくる。 この手帳は、一冊を3か月くらいで使っていくといいものだ。それを冊数をどんどん増やしていくと何年もたってから非常に良い情報の蓄積と自分が何をしてきたのかという流れがよくわかる。使い終わったものはメモ帳の横にナンバーを振るとか、表に年代、2020年5月から8月とか書いておくとあとで非常に助かる。細いボールペンを差し込める形になっている。またそのボールペンのペン先がどこかに触れない程度の長さとなっている。これが服を汚したり、ペンによって突っかかったりすることを防いでくれる。

寺尾誠の「社会科学概論」を読んで感じる。

 この本は1997年発行、慶應義塾大学出版会、大体この本は寺尾誠の全体の思想を表明しているような本である。この本を読んで気づいたことがある。 思想史のない大学は大学といえるか、という問題と同じだが、学者自身のその人なりの分析概念がなければそれは研究とは言えないのではないか。  マックス・ウェーバーやマルクスについても相変わらずそれらの解説の本が多いが、どの本をとっても解説だけしている。はっきり言えば飽きてくるような解説ばかりである。彼らの考え方が今、現在の中でどういう意味を持つのか、持たなくなっているのか、あるいはそう考えてきたが、今の自分はそうとは言えないとか、なぜそうと言えないのかという事が自分の概念で説明されなければならない。しかし日本の多くの彼らに関する本は、彼はこういっている、このこういっているところはだれかの影響、誰かの思想を批判してこういう言い方になった、というような論法であり、だからどうしたのといいたくなるような本がたくさんである。僕は大塚久雄に関しても、彼は中産的生産者、というような概念形成がある。こういう概念は学問的苦闘の末にしかできてこない。批判者も追随者もはっきり言って自分の社会科学がない中で何を言っているのかという本が圧倒的に多い。 学問も一種の流行である。その流行の波に乗ってなければ学者世界でも生きていけないのであろう。残念なことである。非常に。  寺尾誠の場合は、価値による統御、目的による統御、絡み合いの関係構造、など自らが苦闘の中で生み出してきた概念がある。この概念もまた無視されてきているのである。マックス・ウェーバーやマルクスのその研究という解説の中で引用されたことはほとんどないだろう。こういう自分の形成した概念なくして社会科学の発展はない、といっても過言ではない。 これが学問であったのか、非常に残念な世界である。 特に社会科学の世界、これでは思想史のない大学が増えるわけだ。  今後読むべき本は学者のオリジナルな概念のある社会科学の本を読むべきだ。いくら解説読んでも勉強にならない。またそういう本はむつかしい。なれない言葉が多いからだ。最初は、ウェーバーやマルクスもそう読みやすいものではなかったはずだ。だから岩波やみすずから出ているといっても信用してはならない。もったいない。お金が。 だから出版社の方がこのブログ読ん...