英雄たちの本を整理しました。

今日は一日雨です。家の中でじっとしているうちにある考えが浮かびました。
そうだ本を整理しよう。
昔から本だけはたくさん買ってきました。ある時はブックオフに売ったりしましたが、ほとんど手元に置いてあります。読む本も読まない本も。しかしよく考えてみるともういい歳=70なので何でもかんでも読める年ではないとはたと気が付きました。それでちょっとこむつかしい本もいつか読むと思っておいてあったのですが、今日はある程度整理しました。
捨てたわけではないですが、デパートの紙袋に3袋くらい、100冊くらいにはなるでしょうか。そう分けてみてわかったのは未練がなくなってしまったという事です。



最初から読めないと思っていたのか、関心が薄れたのかわかりませんが整理すると自分の関心がそんな処にはないという事がわかったのです。
しかしどこに自分の関心があるかはっきりしたわけではないですが、少なくとも分けてしまった本については何の関心もなくなりました。特に今まで力も入れ関心あると思っていた近代資本主義の発生問題、大塚久雄やマックス・ウェーバー的なものなどについては興味が大きく後退しました。丸山真男、吉本隆明など、これらの方々は若い時は花形の思想家でした。

しかし今考えてみると、そういう彼らの一般的理論ではわからないことばかりです。歴史的にみると第二次大戦が終わってイスラエルが建国された、パレスチナ人は追い出された、この問題について欧米が大きな責任がありますが、この責任問題というものが一切問われないで現在まで来ているのです。欧米というのは我々に民主主義を教えてきた世界です。しかし欧米の考え方は強いものが強いという思想です。それだけでは正確ではないですが民主主義もあります。強権と民主主義が入り混じっている状態。一方だけではない。

民主主義の原則といわれているものに少数意見を尊重しようというのがあります。単なる多数決ではないのが民主主義の原則なんですが、世界は民主主義でも何でもないのです。それは言いすぎですが、日本の憲法第九条のようになければ大変なことになったであろうというのは想像に難くない。それと同様形骸化しているかもしれないが民主主義というものが建前として採用されている国、そうでない国でも民主主義は基本的に是と意識されているわけです。この意識が全くないとすれば大変なことになっていたなと思うところです。そういうわけで弱肉強食と民主主義との間で世界の意識、行動がが揺れています。

弱い者のための政治というものはないのか?そういう民主主義という市民的権利を一番標榜してきた人たちの思想というものは一度距離を置いて考えてみないと、本当に弱い者のための政治は将来ともに世界に立ち上がらないだろうと思います。しかしまだ民主主義的なものが是と意識されている世界は捨てたものではないのです。しかしそれを支えてきたと思われた人たちの思想については欧米と同じ論理なのか距離を置いて考え直してみるというところです。

我々は考えなければならないのはその最高の理想のような民主主義、それを生み出し、活用して国を作ってきた人たちがなぜその真逆の反民主主義のような、強権主義を実行してしまうのか、逆にいえば民主主義があるからその強権を抑え込んでいるのか、むしろ弱肉強食の世界だから民主主義が少しでも制御の役割を果たしているのか。
個々の歴史に即して考えなければならないテーマではありますが、この欧米の、またそれに連なる先進国の思想、行動というものをしっかりと見ないと本当に民主主義が死んでしまう事にはならないのか。またどうしてしっかりした民主主義が育たないのか。ドイツからナチが生まれたように、小さなナチがよい土壌から生まれ、いたるところで跋扈している。
我々は苦しい民主主義というものを考えるべきではないだろうか。最初から苦しい民主主義であるということを前提に考えていくべきだったのか。

そういうわけで、過去の英雄たちの本をいったん置いて今現在の問題を自分なりに考える必要がある。しかしその時の理論は何かと言われればもちろん戻ることもあるが違うことを目指す必要もある。マルクスもウェーバーもまだまだ影響力はあるがしかしそこにこだわるのはその先生方が英雄であったからでその人たちを持ち上げれば、持ち上げた人には何の非難もない、という事で安心してその分野のことをやっていけるのですが、この時代は、とりあえず彼らの意見は置いておいて自分で考える必要がある。

大げさに過ぎるのはわかっていますがそのくらいの気持ちでないと本も捨てることもできない。とりあえず今日のところは本を少し仕分けした程度ですが。

コメント

このブログの人気の投稿

メモの重大意義についての発見

日本人の「甘え」の概念と西欧