投稿

12月, 2019の投稿を表示しています

寺尾誠の「社会科学概論」を読んで感じる。

 この本は1997年発行、慶應義塾大学出版会、大体この本は寺尾誠の全体の思想を表明しているような本である。この本を読んで気づいたことがある。 思想史のない大学は大学といえるか、という問題と同じだが、学者自身のその人なりの分析概念がなければそれは研究とは言えないのではないか。  マックス・ウェーバーやマルクスについても相変わらずそれらの解説の本が多いが、どの本をとっても解説だけしている。はっきり言えば飽きてくるような解説ばかりである。彼らの考え方が今、現在の中でどういう意味を持つのか、持たなくなっているのか、あるいはそう考えてきたが、今の自分はそうとは言えないとか、なぜそうと言えないのかという事が自分の概念で説明されなければならない。しかし日本の多くの彼らに関する本は、彼はこういっている、このこういっているところはだれかの影響、誰かの思想を批判してこういう言い方になった、というような論法であり、だからどうしたのといいたくなるような本がたくさんである。僕は大塚久雄に関しても、彼は中産的生産者、というような概念形成がある。こういう概念は学問的苦闘の末にしかできてこない。批判者も追随者もはっきり言って自分の社会科学がない中で何を言っているのかという本が圧倒的に多い。 学問も一種の流行である。その流行の波に乗ってなければ学者世界でも生きていけないのであろう。残念なことである。非常に。  寺尾誠の場合は、価値による統御、目的による統御、絡み合いの関係構造、など自らが苦闘の中で生み出してきた概念がある。この概念もまた無視されてきているのである。マックス・ウェーバーやマルクスのその研究という解説の中で引用されたことはほとんどないだろう。こういう自分の形成した概念なくして社会科学の発展はない、といっても過言ではない。 これが学問であったのか、非常に残念な世界である。 特に社会科学の世界、これでは思想史のない大学が増えるわけだ。  今後読むべき本は学者のオリジナルな概念のある社会科学の本を読むべきだ。いくら解説読んでも勉強にならない。またそういう本はむつかしい。なれない言葉が多いからだ。最初は、ウェーバーやマルクスもそう読みやすいものではなかったはずだ。だから岩波やみすずから出ているといっても信用してはならない。もったいない。お金が。 だから出版社の方がこのブログ読ん...

日本人の「甘え」の概念と西欧

「甘え」と社会科学、大塚久雄、川島武宜、土居健郎、弘文堂、昭和51年発行(1976年) 大塚久雄68歳か9歳くらいの時の対談である。まだICUの先生をやっていたと思われる。この本を読むと、マックス・ウェーバーという人がどれほど広く深く学問してきたかという事がよくわかる。汲めども尽きぬ泉のごとくとはこの人のことを言うのではないか。特に、甘えとウェーバーの使うピエテート(恭順)が認識的に近いという事を語っているが、このピエテートという概念をウェーバー研究者はあまり理解していない、という。